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小説

有限と微小のパン

猿の夢を僕は。
その日見た夢の事は決して忘れられない。
僕は猿を見ている。ひょっとすると僕自身が猿で、それを外から見ているのも僕なのかもしれない。しかしそれを確かめる術はない。あるとしたら、自分の意志で決め付けるくらいだろう。あたかも、今から振るダイスの目を決めるかのように。
猿はラッキョウの皮を剥いている。食べるのではなく、ただ剥き続ける。しかし手段が目的だとは限らない。この場合も、そう。猿はラッキョウの皮を剥きたいのではなく、中身が知りたいからラッキョウの皮を剥いているのだ。
だから猿は(僕は)皮を剥きつづける。そして皮は小さく小さく、微小になる。そして僕は(猿は)最後の皮を剥く。
すると「世界」が剥けていた。

そこで目が覚めた。『2001年宇宙の旅』を見ていなければ、決して瞼の裏に写らないような映像だった。そう思うと苦笑する。二重の意味で。だって余りにも分かりやすすぎるじゃないか。徹夜でとある本を読了した後の夢なんだから。夢がいつもこれくらい単純だったら、人はそんなに苦労しないだろう。そして面白がることもないだろう。
ジャンルを分けて安心したいのであれば、推理小説という枠組みに入れてみよう。全体の作りとしてみると確かに、事件が起こって、事象について推理が行われ、最後に犯人とトリックを当てておしまい、という事も出来る。それゆえにワンパターンだという見方も出来る。そういう視点から見るのであれば(否定はしない。肯定もしないが)。
しかしこの小説は新しい。今までの「理系の小説」と言われたものとは明らかに違う。専門用語を的確に説明している、ただそれだけにすぎないものとは明らかに違う。ここには理系的な思想が存在する。
情報処理ときいて、情報を増やす分野だと思ってしまう勘違いは意外にしがちである。だが、実際には情報をまとめあげ、効率をよくする分野である。情報を増やすのではなく、捨てるのだ。
数学と聞いて、物事を難しくしてしまう分野だと勘違いするのも往々にして、ある。しかし実際には公式をより簡単にするのが目的だ。分母と分子の同類項をスラッシュで消し去る瞬間、ここに全てが集約されている。そしてコンパクトになった公式というものは、それだけで何百という言葉を連ねるよりもシンプルに真理を語る。
だからといって、これらの作品を読むのに構える必要は決してない。素直に楽しめる、極上のエンターテイメント。先の展開が気になって、ついつい夜更かしをしていたら、いつのまにか朝日の眩しさに驚く。あの至高の時を是非、楽しんでほしい。
小説を読む事は、漫画を読む時の面白さと違う面があると思う。
読む事により、脳という自分の小宇宙の中に絵が描かれる。その絵は決して他人のそれと同じにならず、自分の今までの辿ってきた人生により変化する。同じ小説を読んだからといって、同じ人間が読んだからといって、同じ絵が描かれるとは限らない。そこが面白い。
僕がシリーズ最終作を読んだ時、描かれた絵。
巨大な万華鏡。
極小と極大、絶対と相対、という矛盾を同時に含有するキュビズム画。
果てしない果ての向こう、更なる果ての見える曼荼羅。
そしてもちろん、世界を剥く猿。

皆さんは、この小説を読んで、どのような”絵”を描かれるのであろうか。

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