予備校時代から読みつづけていたので、もう足掛け十年以上の付き合いになりますかね。長い付き合いと言うだけでなく、自分にとって特別な存在です。
昔は小説などを読むときは深く考えずに読んでいたんですが、今思えばあれは文字データをただ単に脳内メモリに取込む作業に過ぎなかったのではないか、という気もします。そういう自覚すらないまま時を過ごしていたのですが、それに気付いたきっかけになったのが、コミックという媒体の『ベルセルク』だったのは奇遇とでも言うべきなのでしょうか。未だにコミックよりも小説やマンガの方がうんぬんとか言う人もいるようですが、素晴らしいものは素晴らしい、媒体には関係なく。ただそれだけのことだと思うのです。
三巻の欲望の守護天使編のラスト、ガッツが泣くシーン、あれが自分の意識のターニングポイントです。あのシーンを見たときに思いました。なぜ彼は今そうしたのか。そしてなぜ今に至るのか。初めて登場人物の心境というものを考えました。そんな僕の意識を汲んだわけではないとは思いますが、物語はその後からガッツの幼少時代に遡り、ガッツの心情の変化が描かれていったのでした。
そういう想いがあるので、最新巻も話の進みが遅いなという思いはあるものの、心情の変化を丁寧に描いている故だしなぁ、と思うのです。ここまで丁寧に書いているからこそ、ガッツが他人を受け入れ、あまつさえ期待すらするという行動もすんなりと受け止められるのではないでしょうか。
そう考えると気になるところがありまして、過去編から現代編に戻ってきたときの話、断罪編のロストチルドレンの章です。結構長い話で終盤は凄かったのですが、割と最初は話の進みが遅くて気になってました。
その後の聖鉄鎖騎士団との絡みでガッツが大怪我をしている必要があったのかとも思ったのですが、それだけならあんなに長くする必要もないし。この先の展開を踏まえた上で、あそこであの話が描かれている必要があったのかもな、と今では思ってます。全てが完結した時、自分はどう思っているのでしょうか。
他に気になる事と言えば、”断罪”の対象、ですかね。分かるような、分からないような。考えさせられますね。これまた完結まで結論を保留したいところですね。
あと気になっているのが、ゴッドハンドのヴォイドの手の指が五本ではなく六本あるところでしょうか。異形は六本指という描写が多いと言えばそれまでですが、髑髏の騎士とヴォイドが対決している象徴的なシーンといい、昔話では神の御使いが五人だったか六人だったかおぼろげな点といい、何かをぼんやりと示しているかのような気がします。
自分の人生の歩みと共に、物語の行き先を見守っていきたいですね。作者が今後も健在でありますように、と六本指の存在に祈りつつ。
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