徹夜明けだから目が疲れているに違いない。最初にそれを見た時はそう思った。思い込もうとした。
雑踏の中、その男だけ色彩がなくなっていた。
周りの人間はカラフルなのに、彼だけがモノクロに見える。
早く家に帰って寝た方がいいな、と思って指で目を押さえた矢先、大きな音がした。
驚いてそちらを見ると、トラックが建物に突っ込んできていた。まさかと思って見てみると、トラックの影からさきほどの男の手だけが出ていた。モノクロな手だけが。
気味が悪いとは思ったものの、これは悪い夢だと思ってその日はすぐに寝た。
そしてそれを忘れかけた頃、会社でモノクロになっている人間を見てしまい、あれは夢ではなかったのだと思い知らされた。
彼はいわゆる窓際族で、高年齢で、未婚で、いつも無表情でつまらなそうな顔をしている。
あまりにも存在感がないので、名前を咄嗟に思い出せないくらいだ。
いよいよ病院に行くべきだろうか。眼科、いや脳外科か、いやいや精神科がいいかもしれない。
そう思った矢先、窓際さんは席を立って部屋を出て行った。それがあまりにも普通のそぶりだったので、まさかその直後にビルの屋上から飛び降りるとは思っても見なかった。もしやと思って現場を見てみると、青いビニールの下から少しだけ見えていた足はモノクロだった。
認めたくないが、私は死が迫っている人間がモノクロに見える、という能力を身につけてしまったらしい。
最初は何かに利用できないかと考えたが、結局は迷惑な代物でしかなかった。なぜなら死が迫っていると分かったとしても、それを回避する方法も分からなければ意味がないからだ。
そういうわけで、世間では意外と死期が迫っている人間が多いな、という結論を得た以外に生活には変化が無かった。あの日までは。
ある日、鏡を見ると目の前の人物がモノクロに見えていた。
言うまでもなく、それは私だった。私自身がモノクロに見えている。
即座に私は会社に有給を使う旨を伝えると、鍵を閉めて家に篭った。下手に外出すると事故にあいかねない。暫くはこうして身の安全をはかりつつ、どうにか対処法が無いか真剣に調べることにした。
調べる、調べる、調べる。
しかし人物がモノクロに見えるなんてことがネット上に掲載されているわけもなく、その対処も書かれているわけが無かった。
洗面所から取り外して押入れにしまっていた鏡を取り出してみる。最初は衝動的に割ろうと思っていたが、何かの拍子に色彩が戻っているかもしれない、と思って別の場所に保管していたのだ。しかし今のところ無駄に終わっている。やはり私はモノクロに見えたままだった。
どうしよう。
このままだと私はどうなってしまうのだろうか。
ここままモノクロのままだと、おそらく死が待ち構えているに違いない。
なんでモノクロに見えるんだ。
モノクロでさえなければ……
その途端、思いついた。
押入れの中を見ると、油絵セットがまだ残っていた。
すぐに飽きてしまったのが幸いだったか、チューブの中に様々な色彩の絵の具が残ったままだった。
すぐさま私は裸になると、体中に絵の具を塗り始めた。蒸し暑い部屋の中、ひんやりとした感触が心地よい。
全身に絵の具を塗りこめ、私はおそるおそる鏡を見た。
鏡の中の私はもうモノクロではない。アフリカの原住民のように、カラフルな色彩に身を包んでいる。
よし、これでいい。
これなら大丈夫だ。
安心した途端、緊張感が途切れたのかすぐに睡魔が襲ってきた。私はそのまま安らかに目を閉じた。
数週間後。
マンションの持ち主から異臭がすると通報があり、かけつけた警察が見たものは、全身裸で絵の具まみれになって死んでいる男の姿だった。
「死因は皮膚呼吸が出来なくなった、ということでしょうか?」
「いや、そりゃ俗説だな。カエルじゃないんだし」
「じゃあどうして?」
「まぁ、絵の具の毒作用か、発汗作用が出来なくなったからだろうな」
「あれ、今日は青色のビニールじゃないんですか」
「ちょっときらしてたんでな」
そう言いながら、係の人間が死体に灰色のビニールをかけた。
その脇には、絵の具だらけになった鏡が転がっていた。