第一部 ジョーカー
遂に日の目を見なかったとはいえ、警察組織によるデスノート事件の調査はひっそりと、だが精力的に行われていた。それによると事件の開始は 2006 年 8 月第一週、日本の関東近辺にほぼ限定される。
最初にデスノートが使われた日時は今となっては特定できない。それほど大量のデスノートが闇に紛れてバラまかれたのだ。中にはダミーも多く含まれていたことが事件の発覚を遅らせた。犯人組織は最初から事態の推移を予測していたと思われる。
公式記録に残る最初の事例は群馬県の中学生の自白である。彼はクラスの同級生からいじめを受けていた。家族には次のように語っていたという。
- 封筒が郵便ポストに入っていた。消印はなかった。
- 中身は便箋一枚と小さな紙片一枚だけ。
- 便箋には「この紙片に本名を書かれた人間は死にます」とだけ書いてあった。
- 紙片は人の名前がやっと一人分書けるくらいの大きさだった。
- ○○(いじめの首謀者)の名前を書いた。
- 次の日○○が死んだ。心臓麻痺だと先生に言われた。
- 怖くなって手紙は全部燃やした。
- 告別式の最中に吐いた。
- 我慢できなくなって警察に行ったが信じてもらえなかった。
彼と家族は後に心臓麻痺で死亡している。
デスノートに関する噂はインターネット上でほぼリアルタイムに拡散したが、メディアがそれを取り上げるまでに数週間、政府が公式見解を打ち出すまでにまた数週間を要した。その間に数箇所の匿名掲示板でデスノートの効果を実証するスレッドが大量に立てられ、少なく見積もって数十名の命が奪われた。
日本政府の対応は後手の上に後手を踏んだ。 8 月中旬以降、デスノートの流通経路は異常に多様化した。匿名の配布はもとより、通常郵便、エアメールに偽装されたり、一箇所に数枚のデスノート片を送って周囲に配布させるケース、或いは公共のパンフレットにはさみ込まれていたケースもあった。金銭での売買もひっそりと、だが確実に行われていた(ただ、これは商品の性質上、多くの詐欺を生んだのだが)。しかし警察組織はこれを取り締まれない。デスノートの所持・流通及び使用を違法とする根拠を正当化できなかったためである。むしろデスノートの配送を摘発することは憲法第 21 条第 2 項「通信の秘密」に抵触する可能性もあった。
最もデスノートを恐れたのは、いわゆる公人だった。今や本名の公開は死病への感染と同義である。不心得な者がノートを持てば、僅かな気まぐれで彼らの命が奪われるかもしれないのだ。 TV ・ラジオは壊滅した。新聞からは実名が消滅した。ネットは存続したが、ありとあらゆる公式サイトや blog に命乞いが溢れた。実名 blogger は更新を余儀なくされた。ノートを無視することも、閉鎖することも、挑発することもままならない。自殺者も大量に発生した。
一方、匿名を維持できた者の地位は相対的に跳ね上がった。とはいえ彼らにも実名での生活がある以上、いつなんどき死が訪れぬとも限らない。いきおい文章は刹那的となり、高踏的な話題は低迷し、デスノートに関する愚にもつかぬ議論と、にわか宗教論と、あとは大量のネタが Web を席巻した。誰が詠んだか、こんな狂歌が流行ったのも時代の空気を映すエピソードと言うべきだろうか。
世の中は 言ってもわからぬ馬鹿ばかり 俺のノートで死ねばいいのに
ノートの配布元は発覚しなかった。模倣犯、便乗犯、愉快犯、売人の類は大量に特定されたが、肝心の発生源は特定されぬままだった。大規模な組織の関与が疑われたが、真相は今以て闇の中である。
9 月に入り、デスノートの配布がアメリカ・中国・ロシアを始めとする数カ国に拡大した。大統領を始めとする政府高官がことごとく死亡したアメリカ政府は強権を発動しようとしたが、実際問題として責任を取れる人物がおらず、対策は遅々として進まなかった。銃社会についての皮相的なドキュメンタリーで知られる映画監督・ミヒャエル・マウアーはこう発言している。
「デスノートが人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」
彼は二日後に心臓麻痺で死亡した。
後世の作家はこう語っている。
いわばデスノートは史上最強の民主主義であった。殺りたいことを殺りたいようにやれる特権の分配が犯人の意図であったのだろう。老いも若きも男も女も、病める者にも健やかなる者にも死は平等である。天下国家を憂える正義の誅戮者、フラれた女の子を逆恨みする変態、どちらの欲望も同列に扱われるところがデスノートの画期的な点であった。
熱狂と、恐怖と、不安定が世界を覆いつつあった。
※インターネット・アーカイブで第一部を摘出できましたが、永続する保証がないので当ブログ内で引用させていただきました。問題があれば削除いたします。
※第2部以降は、近日公開予定