最近、妻の様子がおかしい。
我が家ではトイレの隅にトイレットペーパーを備蓄している。
いつもは1パック、つまりは5・6本ほど置いてるだけなのだが、いつの間にかかなりの量が積み重ねられている。
トイレの右側の壁を隠してしまいたいのだろうか、と言わんばかりの数のトイレットペーパーの不気味さに耐えられず、ある日、質問しようとした。
「あのさ、トイレットペーパーのことだけど……」
「トイレットペーパーって偉いよね」
「え?」
「ドーナツは食べ終わると穴が消えるけど、トイレットペーパーは使い終わっても穴が残ってるよね。これって凄くない?」
「……ああ、そうだね。凄いね」
なぜ穴が残るのが偉いと言っているのにトイレットペーパーの芯は並べたりしないのだろうか。
そう考える自分も少しおかしくなってきているのだろうか。
私は何故かこの時、妻を帽子と間違えた男の話を思い出していた。
物の認識が正常に出来なくなり、妻を帽子と思ってかぶろうとする悲しい男の話を。
もしかすると私の妻もトイレットペーパーを何かと間違えているのかもしれない。
いや、もしかするとトイレットペーパーの芯を何かと間違えているのかもしれない。
幸か不幸か、それ以外の点では妻はいつも通りだ。
明るく元気で茶目っ気のある、いつもの妻だ。
だからむしろおかしいのは私の方なのかもしれない。
どちらがおかしいにしても、私が疑問にさえ思わなければいつもの団欒はここにある。
だから私は疑問を口にはせず、ただにっこりと微笑んで妻とすごす。
しあわせの定義は人の数だけあるに違いないと信じつつ。